個人用知的移動体における体験共有のためのコミュニケーション支援システムに関する研究
概要
個人用知的移動体AT(Attentive Townvehicle)は、 搭乗者である人間や、自分を取り巻く環境に適応し、 個体間通信によって協調的に動作可能な個人用の乗り物である。 ATに乗り込むことによって、移動に伴う環境の変化に応じて、 暗黙的な情報処理を行うことができる。 これにより、実世界状況や文脈に合わせて、 その時点で最適な情報サービスを受けることができる。 我々は、ATを新たなコミュニケーションツールとして捉え、 実世界状況に依存した情報を利用して体験記録を作成し、 共有・再利用するシステムの構築を目指している。
本研究では、体験記録の共有にSNS(Social Networking Service)の仕組みを取り入れることで、 ネットワーク上のコミュニケーションと実世界のコミュニケーションを 両方から支援するシステムを構築した。 共有する体験記録は体験日記という形で閲覧でき、 これをユーザ同士で共有することにより、 相互理解や、コミュニケーションの活性化を促す。
本システムでは、体験記録に含まれるユーザの嗜好に着目し、 体験記録に付与されているキーワードに基づき、ユーザの嗜好を分類する。 さらに、SNS上において嗜好の似たユーザを自動的に紹介するなどのサービスを提供する。
また、ATに搭乗した実世界活動において、 ユーザは自分と嗜好の近いユーザを募り、 「その時」「その場」で活動を共にするグループの形成を支援する。 本研究ではこれをアドホックコミュニティと呼ぶ。 アドホックコミュニティでの活動を支援することにより、 ユーザ同士のコミュニケーションの活性化と、 より充実した体験を支援する。
1 はじめに
「いつでも、どこでも、誰でも」情報ネットワークに接続することができるユビキタスネットワーク社会が、 そう遠くない未来に実現されるであろう。そのような社会では、情報端末が常に人間の近くに存在する必要がある。 これは、日常生活の中に情報端末が密接に関わり、生活の一部となることだと考えられる。
ウェアラブルコンピューティングや、モバイルコンピューティングの分野では、 情報端末を身に付けたり、常に持ち歩くことによって情報端末を人間にとって身近にしているが、 情報端末の小型化・高性能化が進んでも、人間が持ち歩くには限界があるだろう。 また、情報端末を持ち歩くだけでは、人間の物理的な行動に連動させて情報処理を行い、 さらにその結果を直接的に行動に対して反映させることには、限界があると考えられる。
そこで我々は、個人用知的移動体AT(Attentive Townvehicle)の研究開発を通して、 身につけたり持ち歩いたりする情報端末ではなく、 情報端末に乗り込むことで一体となり共に移動することができる、搭乗型の情報端末を提案している。 個人用知的移動体ATは、 搭乗者である人間や、移動体を取り巻く周囲の物理的・情報的環境に適応し、 個体間通信によって協調的に動作可能な個人用の乗り物である。 ATに乗り込むことによって、移動に伴う環境の変化に応じて、 暗黙的な情報処理を行うことができる。 これにより、実世界状況や文脈に合わせて、 その時点で最適な情報サービスを受けることができる。 我々は、ATを新たなコミュニケーションツールとして捉え、 実世界状況に依存した情報を利用して体験記録を作成し、 共有・再利用するシステムの構築を目指している。
体験共有とは、体験の際の感動や、体験で得た知識を他者と共有することである。 一般的な体験共有は、体験の瞬間、その場所に居合わせた他人と、同じものを見たり感じたりすることで行われる。 しかし、体験を何らかの方法で記録し、それを他者に伝える手段があれば、 情報のリアルタイム性や臨場感の問題は残るが、新たな体験共有として実現することができる。 本研究では、体験の瞬間を分かち合う体験共有を同期型、 記録した体験を共有する体験共有を非同期型と呼ぶことでそれぞれ区別する。 同期型の体験共有の特徴は、臨場感のある体験を新鮮なままに他人と分かち合うため、 深い意思の疎通が可能であるという点である。 そのため、非同期型では成し得ない、より密なコミュニケーションが期待できる。 非同期型の体験共有は、体験記録を経由した体験共有であるため、 同期型に比べてリアルタイム性や臨場感は損なわれる。 しかしながら、時間や場所を超えた体験共有が行えるという特徴を持っている。
体験共有では、親しい仲間や、尊敬する相手、興味を持った相手とコミュニケーションを行うことで、 自分の体験をより豊かにしたり、共有相手との親睦を深める効果が期待できる。 このように体験共有においては他者とのコミュニケーションが重要であるため、 体験共有に適したコミュニケーションの手段が提供されている必要がある。
一方で、現在、SNS(Social Networking Service)と呼ばれるオンラインコミュニケーションサービスが盛り上がりを見せている。 SNSの大きな特徴一つは、実世界における社会的な人間関係を利用している点である。
SNSは、人間関係を利用したコミュニケーションツールであるため、 非同期型の体験共有と親和性が高いと考えられる。 その理由は二つある。 一つは、体験記録は個人の行動を記録したものであり、 個人情報やいわゆる内輪の話題が含まれている可能性が高いという点である。 また、もう一つは、全く関係のない人物よりも、 知人や趣味の合う人たちとコミュニケーションを行うことで、体験共有が促進されると考えられる点である。 SNSを用いると、人間関係を広げることが比較的容易であるが、 その人間関係はネットワーク上に閉じたものになりがちであり、 実世界のコミュニケーションへ直接的に反映させる仕組みが無い。 実世界におけるコミュニケーションを支援することは、 同期型の体験共有を促進することにも繋がると考えられるが、 一般的なSNSに用意された機能だけでは、その支援を実現することは困難である。
以上で述べたように、体験共有はコミュニケーションと密接な繋がりがあり、 体験共有を効果的に行うには、適切なコミュニケーションツールの存在が必要不可欠である。 また、同期型・非同期型を含めた総合的な体験共有のためには、 そのコミュニケーションツールは、実世界とネットワーク上の両方のコミュニケーションを支援する必要がある。
そこで、本研究ではネットワーク上のコミュニケーションと 実世界のコミュニケーションを相互に活性化させ、質の高い体験共有を行うための コミュニケーション支援システムを提案する。 本システムは、SNSを基本とした、体験共有のためのコミュニケーションシステムである。 SNSを用いた体験記録の共有と、アドホックコミュニティの形成支援によって、 同期型、非同期型を含めた総合的な体験共有を提供する。 アドホックコミュニティとは、「その時、その場所」で動的に形成される、ユーザ同士のグループである。 またこのとき、システムは体験記録からユーザの嗜好を推定し、 周囲にあるアドホックコミュニティの紹介を行う。
本論文の構成は以下の通りである。 2章では個人用知的移動体ATについて述べる。 3章では、本論文で提案する体験共有のためのコミュニケーションシステムについて述べる。 4章では、本システムによる実世界コミュニケーション支援について述べる。 5章では関連研究を紹介し、6章でまとめと今後の課題を述べる。
2 個人用知的移動体AT
AT(Attentive Townvehicle)は、搭乗者である人間や、 自分を取り巻く環境に適応し、個体間通信によって協調的に動作することが 可能な個人用の乗り物である。 本章では、ATのコンセプトおよび構成、機能について述べる。
2.1 ATのコンセプト
情報端末が人間社会に溶け込み、 人が意識することなく、常に情報端末が近くに存在するユビキタスネットワーク社会が、 近い将来訪れるといわれている。
我々は、ATの研究開発を通して、 身につけたり持ち歩いたりする情報端末ではなく、 人が搭乗し人と共に移動することができる、搭乗型の情報端末を提案している。 人間の行動の多くは移動を伴うため、移動能力と情報処理能力の両面から行動を支援することで、 人間の活動全般の支援に繋がると考えられる。
2.2 ATの構成
図にATの外観を示す。 ATの駆動系には電動車椅子用のモータと車輪が利用されており、 車体はアルミ材で構成されている。 現在は図の3号機と8号機を用いて研究を行っている。 3号機は立った状態で搭乗し、左右の足で2つのペダルをそれぞれ操作することによって走行する。 8号機は立ち乗りだけでなく、座った状態での操縦も行うことができる。 立ち乗りの際には、後述するステップホイールというデバイスを用い、 座り乗りの際には、2つのペダルを左右の足でそれぞれ操作する。
ATの基本的なシステム構成を図に示す。 ATの制御には3号機8号機共に、 モータ制御用PCと、ネットワーク制御およびコンソール用PCの2台のPCが用いられている。 それぞれのPCの主な役割は以下の通りである。
-
モータ制御用PC
このPCにはATの各種センサや、モータなどの制御系デバイスが接続されている。 Javaを用いてセンサ情報を統括し、モータの制御を行う役割を担っている。
-
ネットワーク制御およびコンソール用PC
搭乗者の手元に設置されたPCであり、タッチパネルを備えている。 搭乗者はこのPCによって、走行状態を閲覧したり、カメラの調節を行ったりすることができる。 また、ネットワークを通じてサーバや他のATと通信する役割も担っている。
センサ・デバイス名 |
使用目的 |
---|---|
傾斜角度センサ |
ペダルの踏み込み角度を測定する |
3軸角度センサ |
車体の傾斜角や回転角を測定する |
圧力センサ |
搭乗中(ペダルに足が置かれている)かどうかを検出する |
モータ監視装置 |
速度や移動距離を算出する |
GPSレシーバ |
現在の位置情報を取得する |
超音波センサ |
障害物との距離を測定する |
PSD測距センサ |
近距離にある対象物との距離を測定する |
RFIDタグリーダ |
環境に設置されたRFIDタグから情報を取得する |
カメラ |
映像の取得・配信を行う |
マイク |
音声を取得する |
PSD-IRアレイ(※) |
赤外線による近接通信、前方の障害物の距離・方向を測定する |
タグベスト(※) |
ユーザの識別と各種コマンドの送信を行う |
搭乗者識別モジュール(※) |
搭乗者を識別する |
ステップホイール(※) |
搭乗者の重心位置を利用して走行を制御する |
表中の※は、我々が独自に開発したデバイスである。以下に、それぞれのデバイスについて述べる。
PSD-IRアレイは、PSD距離センサと赤外線信号送受信モジュールを8個ずつ、 180度の扇形に配置したモジュールである。 その外観を図に示す。 これはATの前方に取り付けられており、 近接するのATやタグベストとの赤外線通信に利用される。 PSD-IRアレイを用いると、赤外線通信が行えるだけでなく、 通信対象との距離と角度を知ることができる。
タグベストは、赤外線信号を発信する衣服である。 タグベストは着用者のIDを常に発信しており、 ATに搭載されているPSD-IRアレイを用いると、 前方に存在する人間を識別することができる。 また、タグベストについているボタンを押すことにより、 ATにコマンドを送ることができる。 タグベストの外観を図に示す。
搭乗者識別モジュールは、ATに搭乗している人物を識別するためのものである。 赤外線受信センサとマイコンの組み合わせからなり、 搭乗者が着用しているタグベストのIDを判別することができる。 搭乗者識別モジュールの外観を図の右下に示す。
ステップホイールは、搭乗者の重心移動によってATの走行を制御するためのモジュールであり、 現在8号機に装備されている。 円形のアルミ板の上に8つの圧力センサを外周に沿って配置し、 その上から円形のアクリル板で覆っている。 搭乗者はステップホイールの上に立ち、進みたい方向に体重をかけることにより、 ATを意図した方向へ動かすことができる。 ステップホイールの外観を図に示す。
これらの各種センサの情報や、次節で述べる通信に関する履歴などは全てATに記録され、 体験記録を作成する際に文脈情報として利用される。 ATによる文脈情報の獲得については、節にて述べる。
ATに搭乗すると、タグベストと搭乗者識別モジュールを利用してユーザ認証が行われる。 このとき、圧力センサによって搭乗者の搭乗が確認されると、ログインが完了する。 ATには搭乗者のプロファイル情報が登録されているため、 ログインを行うことで操作性などを個人に適合させることができる。 具体的には、最高速度や、衝突回避の動作量などが含まれる。 ログインした状態でATから降りた場合、ATはユーザの自動追尾を開始する。 これはヒューマントレーサシステムと呼ばれる仕組みで行われる。 ヒューマントレーサでは、ATはPSD-IRアレイを利用して、 ユーザが着用しているタグベストの方向と距離を認識し、 ユーザの追尾を行う。 タグベストはユーザのIDを発信しているため、 ATは直前までログインしていたユーザだけを追尾する。 また、タグベストのコマンドボタンを用いて、 ヒューマントレーサの停止および再開の操作を赤外線信号によって行うことができる。 停止状態のATに再度乗り込むと、再び手動による操縦が可能な状態へ復帰する。
2.3 ネットワークに関する機能
ATには無線LANや赤外線通信モジュールが搭載されており、 これを用いることで他のATやサーバとの通信を行う。 本節では、ATの特徴の一つである通信機能について述べる。
図に、ATにおけるネットワークの構成図を示す。 ATにおけるネットワークでは、すべてのATから無線LANでアクセスできる、 統括サーバと呼ばれるサーバの存在が前提となっている。 統括サーバは、全てのATの位置情報をクローリングによって収集し、蓄積する。 また、それぞれのATに対して収集した情報をカスタマイズして配信する。 具体的には、配信対象となるATの位置情報を考慮して、 周辺にいる他のATや、施設などをリスト化し、 ID情報やホームページのURLのようなリンク情報とともに配信する。 また、統括サーバ以外にも、たとえば美術館のような施設単位で、 情報を配信するサーバが複数存在している。
次に、AT間で行われる通信について述べる。 ATは個体間通信によって、AT同士や搭乗者同士の情報交換を行うことができる。 たとえば、AT同士の連携動作に関する制御情報や、搭乗者間におけるメッセージのやりとりなどである。 個体間通信では、目的や通信対象との距離に応じて、サーバを介した無線LAN通信、 無線アドホック通信、PSD-IRアレイによる赤外線通信が自動的に切り替わり、 状況に応じて使い分けられる。 たとえば、遠隔にあるATと情報交換を行う場合は、サーバを介した通信が適している。 また、AT同士の衝突回避や、隊列走行などの即時性を求められる場面では、 暗黙のうちにAT間のコネクションに切り替わることで対応する。
2.4 コミュニケーションに関する機能
ATが備えている搭乗者間でのコミュニケーションのための機能について述べる。 ATでは、コンソールPC上において、搭乗者間でメッセージを送受信することができる。 また、文字によるコミュニケーションより、映像を用いた方が意思の伝達が円滑に行われる場合が想定される。 たとえば、現地の様子を伝えたい場合、 文字列で表現するには時間がかかったり、説明が困難であったりすることが考えられる。 このような情報については、メッセージだけでなく、お互いのカメラ映像を配信し合うことによって より詳細に取得することができる。 カメラ映像を他者に対して配信するには、まずそのリクエストを相手に送信する。 承認が得られると、お互いのプロファイル情報と共に、カメラ映像を表示することができる。 またこの際に、音声による通話が可能になる。 図にそのためのインタフェースを示す。 左側のフレームには相手のプロファイル情報およびメッセージの送受信履歴、 右側のフレームに相手のカメラ映像が表示されている。
3 ATにおける体験共有のためのSNS
本章では、まずATを利用した体験の記録について述べる。 次に、体験記録のコンテンツ化と、共有について考察する。 その上で、SNSを利用した体験共有システムについて述べる。
3.1 体験記録とその共有
3.1.1 体験記録
体験をディジタル情報に変換するためには、 まず体験がどのようなものなのかを考える必要がある。 本項では、体験について考察し、本研究における体験を定義する。
体験とは、手持ちの辞典\footnote{明鏡国語辞典}によれば、 「実際に身をもってなまなましい経験をすること。またその経験」とある。 また、経験とは、 「自分で実際に見たり聞いたり行ったりすること。 また、それによって得た知識や技能」 とある。 つまり、体験を記録するためには、 体験者が五感で感じたものや、得た知識や技能を記録すればいいということになる。
しかし実際には、これらを機械的に記録するのは難しい。 たとえば、体験者が常にカメラで自分の体験を撮影していたとしても、 その映像だけでは、体験記録と呼ぶことはできないと我々は考える。 何故ならば、その映像に映っているもの全てが、体験者の見たものとは限らないためである。 映像に記録されたのはあくまで、カメラが見ていた内容であって、 体験者が積極的に知覚した風景ではない。 また、体験者が何を見ていたのかは、体験者の視線を追跡するだけでは不十分である。 そのとき体験者がどういう意図で何を見ていたのか、 それに対して何を思ったのかという情報を含めなければ、 その記録は体験記録と呼ぶことはできない。
以上の考察から、本研究では体験を「主体的な行動一般に対する主観的な解釈」であると定義する。 我々の定義では、体験者がどのような行動を行っても、 体験者にとって「この行動は私の体験である」と感じなければ、 その行動は体験として扱わない。 つまり、行動は体験者による主観的な解釈によって初めて体験になるのである。 本研究では、体験においてセンサやカメラなどによって記録できる客観的な情報を文脈情報と呼び、 その文脈情報に対する主観的な解釈を体験定義と呼ぶことにする。 つまり、本研究で扱う体験記録は、文脈情報と体験定義の組からなる。
3.1.2 体験共有
体験共有とは、体験の際の感動や、体験で得た知識を他人と共有することである。 一般的な体験共有は、体験の瞬間、その場所に居合わせた他人と、同じものを見たり感じたりすることで行われる。 しかし、体験を何らかの方法で記録し、それを他者に伝える手段があれば、 情報のリアルタイム性や臨場感の問題は残るが、新たな体験共有として実現することができる。 本研究では、体験の瞬間を分かち合う体験共有を同期型、 記録した体験を共有する体験共有を非同期型と呼ぶことでそれぞれ区別している。 同期型の体験共有の特徴は、臨場感のある体験を生々しいままに他人と分かち合うため、 深い意思の疎通が可能であるという点である。 そのため、非同期型では為し得ない、より密なコミュニケーションが期待できる。 非同期型の体験共有は、体験記録を経由した体験共有であるため、 同期型に比べてリアルタイム性や臨場感は損なわれる。 しかしながら、時間や場所を超えた体験共有が行えるという特徴を持っている。
体験共有では、親しい仲間や、尊敬する相手、興味を持った相手とコミュニケーションを行うことで、 自分の体験をより豊かにしたり、共有相手との親睦を深める効果が期待できる。 このように体験共有においては他者とのコミュニケーションが重要であるため、 体験共有に適したコミュニケーションの手段が提供されている必要がある。
3.2 ATによる体験の獲得
\label{GetContext} これまで、体験記録の定義と、その共有に関する概念を考察した。 本節では、実際に体験を記録するための技術について述べる。 本研究では、体験を記録するためのデバイスとして、個人用知的移動体ATを用いる。 まず、ATを用いた場合の文脈情報の獲得について述べ、 次に、その情報を用いて体験記録を作成する方法について述べる。
3.2.1 ATにおける文脈情報の獲得
人間の体験を記録するには、何らかのハードウェアを用いて体験を観測し、 それをディジタル情報に変換する必要がある。 体験を記録するためのハードウェアとしては、 ウェアラブルセンサがある。 ウェアラブルセンサは、人間が身につけるセンサ機器である。 この種のハードウェアを用いると、人間が見た物や触れた物など、 人間と対象物のインタラクションについて細かい粒度での記録が期待できる。 角らもウェアラブルセンサを利用しており、それに加えて環境設置型の端末を用意している。 これによって、人間同士のインタラクションや、博物館などにおいて人間がどの展示物を見ていたのかといった、 環境とのインタラクションを記録している。 しかし、ウェアラブルセンサは人間が身につけなくてはならないため、 人間の本来の活動に支障を来す可能性がある。 また、環境設置型では、プライバシー保護の観点から、 記録された情報に対してユーザが自由にアクセスすることが困難である。
そこで本研究では、体験の記録のためのハードウェアとしてATを用いる。 ATでは、ウェアラブルセンサを用いた体験記録のように、 人間の一挙手一投足を細かに記録することはできない。 しかし、移動体そのものがセンサを搭載しているため、 センサの数や重量によって人間の活動の負担になることは無いと考えられる。 また、ATから降りた場合の体験についても、 ATのヒューマントレーサ機能を利用すれば、 ATに自分を追跡させ、自分を撮影させることができる。
次に、ATで記録できる文脈情報について具体的に述べる。 ここでは、センサ情報などの客観的な情報のみについて言及し、 それに対する主観的な体験定義については後述する。 ATで自動的に獲得できる情報は、以下の通りである。
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位置に関する情報
ATに搭載されているGPSレシーバを用いて、現在の位置情報を獲得することができる。 さらに、位置に関連する情報を取得するために、建物や部屋の入り口のような場所に、 RFIDタグを設置することを想定している。 このRFIDタグには、その場所を特定するためのIDが記録されている。 これにより、緯度や経度だけでなく、 どの建物に入ったのかという情報まで取得することができる。 また、GPSの利用できない屋内では、 たとえば屋内の要所に設置されたRFIDタグを利用することで、位置情報を補正する。
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搭乗者の情報
ATは、現在の搭乗者のIDおよびプロファイル情報を保持している。 搭乗者の識別のためのデバイスとしては、 搭乗者識別モジュールとタグベストを用いている。
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映像・音声情報
ATに取り付けられたカメラとマイクを用いて、 映像・音声情報を記録することができる。 カメラはATの前方にあり、 コンソールPCから、ズームやパン・チルト角などの操作が可能である。 映像・音声情報は常時記録され、映像情報はMPEG-4に、 音声情報はMP3にリアルタイムエンコードされ、AT内に蓄積されていく。 これらは一定時間ごとに分割されながら記録され、 FTPを利用して随時サーバにアップロードされる。 このときのサーバは、2.3節における統合サーバを指す。
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情報閲覧履歴
統合サーバから配信された情報にアクセスした場合、 その情報IDや時間、そのときの位置情報などが共に記録される。
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通信履歴
他のATとメッセージの送受信や、カメラ映像の交換配信、 音声通話などが行われた場合、その履歴は自動的に記録される。 通信履歴には、AT-サーバ間通信、アクセスポイントを経由したAT個体間通信、 PSD-IRアレイを用いたAT個体間の近距離通信が含まれる。
以上のようにして記録される情報は膨大な量におよび、 後に体験記録として整理する際に、ユーザに大きな負担をかけることになる。 そこでこの情報を体験記録の作成に使えるようにするために、 イベントという概念が用意されている。 イベントとは、ATによって獲得された文脈情報のセグメントを意味している。 文脈情報は、その記録時に、自動または手動で付与されたインデックスによってセグメントに分割され、 そのセグメント一つ一つがイベントとなる。 これにより、長時間の記録から後に体験記録を作成するためにかかる、ユーザへの負担を下げることができる。 具体的には、インデックスは建物の出入りの際や、明示的な通信が行われた際などに自動的に付与される。
3.2.2 文脈情報に対する主観的な解釈
3.1節で述べたように、ATで自動的に記録した文脈情報だけでは、 体験記録にはならない。 文脈情報から体験記録を作成するには、 文脈情報に対して体験者による主観的な解釈を加えなければならない。 我々はその解釈のことを体験定義と呼んでいる。
体験者が付与できる体験定義は、次のような物である。
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イベントに対する体験要素の定義
体験要素とは、体験を構成する部分的な要素である。 たとえば、「○○へ行って××を見た」という体験をした場合、 「○○へ行った」「××を見た」という部分が体験要素に当たる。 体験要素は主観的な解釈のため、文脈情報との関連を体験者が明示する必要がある。 ここでは、イベント単位に区切られた文脈情報の中から、 体験者によって選択されたものが体験要素となる。 また、体験要素として意味づけされなかったイベントについては、 他者に公開されない。
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体験記録の作成
体験は、一つ以上の体験要素からなる。 体験者は複数の体験要素を関連付けることによって、体験記録とすることができる。 一つの体験記録が一つの体験に対応している。
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体験記録および体験要素に対するコメントや評価
体験要素単位、体験記録単位において、コメントなどを付与することができる。 具体的には、付与できる情報はコメント、5段階評価、およびタグである。 コメントは、その体験がどういう体験であったのかということや、 その体験における感想などを、テキストで記述する。 5段階評価は、その体験に対する評価を5段階で示す。 タグは、その体験の意味や属性を表すキーワードである。 タグは、基本的にあらかじめ用意されたタグの中から選ぶことになるが、 用意されていないタグについては、ユーザが任意に追加することができる。
3.2.3 体験コンテンツ
これまで、ATで記録した文脈情報から体験記録を作成する方法について述べた。 体験を共有するためには、パーソナルな情報である体験記録を、 オンラインで閲覧可能なコンテンツとして扱う必要がある。 そこで、体験記録に対して、共有のための仕組みや、 閲覧のための仕組みを用意する必要がある。
本システムでは体験記録に 体験者のプロファイル情報、公開ポリシーなどの共有に関する情報を加え、 日記形式で閲覧できる仕組みを実現する。 このようにして公開された情報を体験コンテンツと呼ぶ。 体験コンテンツの閲覧画面を図に示す。
3.3 体験共有のためのSNS
近年、SNS(Social Networking Service)と呼ばれるコミュニケーションサービスが盛り上がりを見せている。 SNSの大きな特徴一つは、実世界における社会的な人間関係を利用している点である。
SNSは、人間関係を利用したコミュニケーションツールであるため、 非同期型の体験共有と親和性が高いと考えられる。 その理由は二つある。 一つは、体験記録は個人の行動を記録したものであり、 個人情報やいわゆる内輪の話題が含まれている可能性が高いという点である。 またもう一つは、全く関係のない人物よりも、 知人や趣味の合う人たちとコミュニケーションを行うことで、体験共有が促進されると考えられる点である。 SNSを用いると、人間関係を広げることが比較的容易であるが、 その人間関係はネットワーク上に閉じたものになりがちであり、 実世界のコミュニケーションへ直接的に反映させる仕組みが無い。 実世界におけるコミュニケーションを支援することは、 同期型の体験共有を促進することにも繋がると考えられるが、 一般的なSNSに用意された機能だけでは、その支援を実現することは困難である。
体験共有はコミュニケーションと密接な繋がりがあり、 体験共有を効果的に行うには、適切なコミュニケーションツールの存在が必要不可欠である。 また、同期型・非同期型を含めた総合的な体験共有のためには、 そのコミュニケーションツールは、実世界とネットワーク上の両方のコミュニケーションを支援する必要がある。
そこで、本研究ではネットワーク上のコミュニケーションと 実世界のコミュニケーションを相互に活性化させ、質の高い体験共有を行うための コミュニケーション支援システムを提案する。 本システムは、SNSを基本とした、体験共有のためのコミュニケーションシステムである。 SNSを用いた体験記録の共有と、アドホックコミュニティの形成支援によって、 同期型、非同期型を含めた総合的な体験共有を提供する。 アドホックコミュニティとは、「その時、その場所」で動的に形成される、目的を持ったユーザ同士のグループである。 本節では、まず一般的なSNSについて説明し、 その次に、本論文で提案する、体験共有のためのSNSについての概要を述べる。 また、アドホックコミュニティについては、4章で述べる。
3.3.1 SNS
SNSとは、「友達の友達は友達である」という考え方に基づき、 友人関係、家族関係、男女関係などの社会的な人間関係を電子的に再現するコミュニケーションシステムである。 会員からの招待状が無ければ会員登録ができない制度を設け、 匿名でなく実名によるコミュニケーションを推奨している。 そのため、ユーザ同士の心的な距離が近く、 インターネット上においても安心してより密なコミュニケーションをすることができる。
一般的なSNSでは、ユーザは他のユーザに対して日記を公開する。 SNSに公開した情報は基本的に、そのSNSの会員でなければ閲覧することができない。 また会員の中でも、友達関係にあるユーザにしか個人情報や日記を公開しないようにすることもできる。
また、友人関係のような社会的な関係だけでなく、 趣味や嗜好に応じてユーザが任意にコミュニティと呼ばれるユーザ同士のグループを作成することができる。 ユーザは自分の嗜好に合ったコミュニティを検索し、自由に(あるいは制限付きで)加入し、 コミュニティ内でのコミュニケーションを楽しむことができる。
3.3.2 体験SNS
本研究では、SNSの仕組みを用いた体験共有システムを構築した。 本システムは、複数ユーザ間で体験コンテンツを共有するシステムである。 体験コンテンツの共有ポリシーに、SNSの友人関係やコミュニティといった人間関係を適用することで、 プライバシーの保護や、有用な体験コンテンツの発見に役立てることができる。
本システムは、SNSにおける基本的な機能に加え、体験コンテンツの共有に関する機能を備えている。 以下にその概要を示す。
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個人ページ
ユーザはそれぞれ、個人ページを持つ。 個人ページには、プロフィール、友達リスト、参加しているコミュニティ、 公開中の体験コンテンツなどが表示される。 個人ページの表示例を図に示す。
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友達リスト
友達リストは、ユーザと親密な関係にあるユーザのリストである。 友達リストにユーザを追加するには、追加したい相手の承認が必要であり、 必ず双方の友達リストにお互いが登録される。 そのため、一方だけが相手を友達リストに加えるということは許されない。 全てのユーザに対して公開したくないが、 親密な相手には公開してもいいというような情報があるならば、 友達リストに登録されている相手だけに公開することで、 意図しない相手に対する情報公開を制限することができる。 また、友達リストにユーザを登録することにより、 友達の持つ情報へのアクセスが容易になる。 友達リストは第三者に対して常に公開されているため、 交友関係を披露するためのコンテンツとして価値を持っているとも考えられる。
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コミュニティ
コミュニティは、共通する趣味や関心ごと、 考えなどを持ったユーザの集まりである。 コミュニティは電子掲示板の機能を備えており、 その関心ごとなどについての話題で議論することができる。 また、ユーザがどのコミュニティに参加しているかは 第三者が閲覧することができるため、 コミュニティに参加することで他者に自分の趣味や属性、 どういった人間なのかを端的に表現することができる。
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メッセージの送受信
任意のユーザに対してテキストによるメッセージを送信することができる。
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体験コンテンツの共有
体験コンテンツは、体験日記という形式で共有される。 ユーザは、ATで記録した体験記録から体験コンテンツを作成し、 SNSにアップロードすることができる。 体験コンテンツの作成や管理には、体験コンテンツ共有プラットフォームを利用している。
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体験コンテンツの閲覧
ユーザは、他者の体験コンテンツを閲覧することができる。 また、体験コンテンツに対して、テキストによるコメントを付与することもできる。
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嗜好の類似したユーザの提示
本システムでは、ユーザの公開している体験コンテンツの種類を判別し、 同じ種類の体験コンテンツを公開しているユーザを自動的に紹介する。 これを「つながり機能」と呼んでいる。 具体的には、4.3.2項で述べる、ユーザ間における嗜好の類似度推定手法を利用しており、 全てのユーザ同士の嗜好を調べ、 ある一定以上の類似度を持ったユーザを「つながり」として画面上に列挙する。
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ユーザの位置
ATのコンソールPCで閲覧した際には、現在のユーザの位置を地図上に表示する。 また、ユーザが参加しているコミュニティの参加者や、 友達リストに登録されているユーザが近隣に存在した場合も、 同様に地図上に表示される。
4 実世界コミュニケーション支援
前章では、 体験コンテンツを用いたコミュニケーションを活性化させるためのSNSの構築について述べた。 本章では、ネットワーク上で完結しない、実世界のコミュニケーションの重要性について述べ、 次に、本システムを用いた実世界のコミュニケーションを支援する仕組みについて述べる。
4.1 実世界におけるコミュニケーション
近年、情報技術の発達により、実際に顔を合わせることなく高度なコミュニケーションを行えるようになった。 そのようなコミュニケーションを支援するシステムの中において、SNSと呼ばれる仕組みが注目されている。 SNSは、実世界における社会的な人間関係を再現するシステムである。 SNSを利用すれば、個人の嗜好ごとに作成されたコミュニティを利用するなどして、 実世界の場合よりも気軽に友人関係を広げることができる。 しかし、実世界におけるコミュニケーションは、 このようなネットワーク上のみで完結するコミュニケーションだけでは得られない、重要な価値があると考えられる。 また、実世界において他人と行動を共にすることにより、 新しい体験を生み出すことができる。
ユビキタスネットワーク技術の発展により、実世界とネットワークの距離は今よりも格段に近くなると思われる。 こうした流れの中で、ネットワークや情報処理を用いて実世界の活動を支援することはますます重要になると考えられる。 ATもまた、そのような背景を前提に開発されており、 情報世界と物理世界をシームレスに繋げる事ができる。 たとえば、ATはGPSや走行距離、RFIDタグの情報を統合し、位置情報を計算することができる。 その位置情報を元に、周辺の地図や、近隣の建物を調べたり、 近隣のATとチャットを行ったりすることができる。 また、他人の体験をもとに、追体験を行う場合、 走行ルートの表示や自動走行などの支援を受けることができる。 このように、ATを利用することによって、 実世界環境から取得できる情報とネットワーク上の情報を統合し、 人間の実世界行動を支援をすることができる。
前章では、体験コンテンツを共有することによりユーザ同士のコミュニケーションを支援するためのシステムを構築した。 そして、体験コンテンツに含まれるタグを解析することにより、 ユーザ同士の嗜好の類似度を推定する方法について述べた。 そこで、本システムでは、ユーザ同士の嗜好の類似度をリアルタイムにユーザに対して提示することにより、 実世界でのコミュニケーションを支援する。 また、実世界において距離に依存する、つまり近隣のAT同士で「その場」において動的に生成されるコミュニティについて述べる。 我々はこのようなコミュニティをアドホックコミュニティと呼ぶ。 本システムは、嗜好の近いユーザ同士でのアドホックコミュニティの形成を支援することにより、 実世界におけるコミュニケーションを支援する。 また、アドホックコミュニティの形成をSNSにフィードバックすることで、 実世界活動をSNSのコミュニケーションに結びつける。
4.2 ユーザ間における嗜好の類似度推定
嗜好の合うユーザを探し出し、交友関係を広げることは、体験共有の質を高める事ができると考えられる。 嗜好の合うユーザ同士を探す手段として、 SNSにはコミュニティと呼ばれる機能がある。 本節では、体験コンテンツからユーザの嗜好を抽出することによって、 嗜好に基づいたユーザ同士の繋がりを提示する手法について述べる。
4.2.1 コミュニティと嗜好
SNSは社会的ネットワークという側面を持っているため、友達リストに登録されているユーザ同士で交流を行うことに特化されている。 しかし、それだけでは顔見知りでないユーザの中から、気の合うユーザを見つけることが困難である。 その問題を解決するために、一般的なSNSには基本機能として、コミュニティという機能があり、 本システムにおいても採用している。 コミュニティとは、特定の嗜好や習慣ごとにユーザが作成する、ユーザ同士のグループである。 mixiでは、現在約48万ものコミュニティが運営されている\footnote{2006年2月現在}。
コミュニティに参加するには、まずコミュニティを見つける必要がある。 そのためには、自らコミュニティを検索するか、 他のユーザが参加しているコミュニティの中から偶然気に入ったコミュニティを発見する、 という手順を踏むことになる。 しかしこれらの方法では、適切なコミュニティを探し出し、さらにそこに参加する、という手順を踏まなければならないため、 嗜好によるユーザ同士の繋がりを得るという目的に対しては、不十分であると考えられる。
そこで本システムでは、ユーザ同士の嗜好の類似度を機械的に推定することによって、 従来のコミュニティだけでは得られない、嗜好に基づいたユーザ同士の繋がりをユーザに提示する。 嗜好の類似度の計算には、体験コンテンツを用いる。 ユーザの体験には、そのユーザの嗜好が暗黙的に含まれていると考えられるためである。 次項に、具体的な計算方法について述べる。
4.2.2 体験コンテンツによる嗜好の類似度推定
本項では、2ユーザ間の嗜好の類似度を推定する手法を述べる。 類似度の推定には、体験コンテンツに付与されたタグを用いる。 体験コンテンツは1つ以上の体験要素から構成され、体験要素にはそれぞれ、 体験オントロジーの中から選択したタグが1つ以上付与されている。 ここでは、「似たような体験を多く行っているユーザ」が嗜好の類似したユーザであるとする。
嗜好の類似度推定は次の手順で行う。
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ユーザの嗜好ベクトルの決定
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嗜好ベクトルの数の調整
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合成嗜好ベクトルの比較
まず、1人のユーザの嗜好を、ベクトルの集合で表す。 そのために、ユーザが持つある体験コンテンツの、1つの体験要素について考える。 体験要素には1つ以上のタグが付与されている。 体験オントロジーに用意されたタグの1つ1つを1本の軸としたベクトル空間を用意し、 1つの体験要素を1本のベクトルで表現する。 体験要素にあるタグが含まれていれば1、含まれていなければ0を、タグに対応する値とする。 同様にして、ユーザが持つ全ての体験要素についてベクトル化を行う。 このベクトルを嗜好ベクトルと呼ぶことにする。 この作業によって、ユーザは体験要素の数だけ嗜好ベクトルが作成される。
次に、2ユーザの嗜好ベクトルの数を揃える。 そのために、2ユーザ間において、嗜好ベクトルの数が少ない方のユーザを、 多い方のユーザをと呼ぶことにする。 その上で、の嗜好ベクトルの数を、の嗜好ベクトルの数になるように調整する。 このとき、なるべくの嗜好ベクトルに近いベクトルが残るようにする。 具体的には、の全ての嗜好ベクトルの和(合成嗜好ベクトルと呼ぶ)と の嗜好ベクトルとのコサイン距離を1本ずつ比較し、コサイン距離の値が小さい順にその嗜好ベクトルを残す。 図に、その選択の例を示す。
最後に、2ユーザそれぞれにおいて合成嗜好ベクトルを求め、そのコサイン距離を求める。 こうして求めたコサイン距離を、2ユーザ間の嗜好の類似度とする。
嗜好ベクトルの数を少ない方に揃えたのは、体験コンテンツの所有数に大きな差がある場合にも、 なるべく公平な比較ができるようにするためである。 大量に体験コンテンツを公開しているユーザの場合、 比較する相手に比べ、多くの種類の嗜好ベクトルを持っている可能性が高いため、 ノイズとなる嗜好によって、2ユーザを比較するための適切な合成嗜好ベクトルが求められないと考えられる。
4.3 アドホックコミュニティ
本節では、まずアドホックコミュニティの仕組みについて述べ、 次にその作成方法および、検索方法、参加方法について述べる。
本システムには、コミュニティという機能が用意されている。 これは、ユーザ同士が同じ嗜好のもとに集うグループである。 この仕組みを用いると、嗜好の近いユーザを探すことができるが、 実世界のコミュニケーション支援にそのまま適用することは困難である。 SNS上のコミュニケーションは、他のユーザとの物理的距離に関係が無いため、 コミュニティの参加者が必ずしも近くにいるとは限らない。 そのため、実際に合流して目的地に行くというような活動に繋げるのは難しいと考えられる。
そこで本研究では、アドホックコミュニティという種類のコミュニティを定義する。 本システムではこのアドホックコミュニティの形成によって実世界のコミュニケーションおよび、同期型体験共有を促す。
アドホックコミュニティとは、「その時、その場所」で動的に形成される、ユーザ同士のグループである。 アドホックコミュニティは、ユーザが任意に作成するものであり、その行為は、 行動を共にする仲間を募ることと同等である。 アドホックコミュニティが作成されると、周囲のユーザの地図上には、参加を募っているユーザが表示される。
アドホックコミュニティを作成するには、ATのコンソールPCにおいて、 アドホックコミュニティの作成を指示する。 その時の操作画面を図に示す。 この操作を行うと、近隣のATにアドホックコミュニティの存在が伝わるようになる。 この時点では、アドホックコミュニティが存在するというだけで、 作成者が唯一の参加者となる。 アドホックコミュニティの作成の際には、コメントを指定できる。 このコメントは、参加者に対して提示されるため、 アドホックコミュニティの趣旨を伝えるために利用できる。
ATは常に統括サーバと通信を行っており、 統括サーバからは、周辺のATの位置が配信される。 これによってATは、近隣に存在するATを地図上で確認することができる。 同じように、ATは近隣に存在するアドホックコミュニティと、 そのコミュニティに関する情報を閲覧することができる。 このときのコンソールPCの画面を図に示す。 ユーザはこの閲覧画面から、アドホックコミュニティに参加することができる。 ユーザに提示されるのは、次のような情報である。
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アドホックコミュニティの位置
地図上にアドホックコミュニティの位置が表示される。 コミュニティの作成者と他の参加者とは色で区別され、また、 参加者同士は互いに直線で結ばれて表示される。
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アドホックコミュニティの作成者によるコメント
前節で説明した通り、ここで表示されるコメントは、 作成者がアドホックコミュニティの作成時に指定した文字列である。 そのコミュニティの趣旨を知るために役立つ。
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参加者の人数および参加者の一覧
表示されているコミュニティの参加者(作成者を含む)の一覧を表示することができる。
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アドホックコミュニティとの嗜好の類似度
自分と参加者間における、嗜好の類似度を可視化し表示する。 詳細については、4.4節で述べる。
次に、アドホックコミュニティのSNSへのフィードバックについて述べる。 実世界におけるコミュニケーションで得た人間関係は、 SNSの中だけで得る人間関係よりも価値の高いものである。 従って、アドホックコミュニティで活動を共にした参加者を SNSに記録し、彼らとのコミュニケーションを可能な状態にしておくことは、 今後の活動や、質の高いコミュニケーションのために重要である。
アドホックコミュニティの作成や参加を行うと、その履歴がSNSに保存される。 ユーザは、過去に参加したアドホックコミュニティの参加者を検索することができる。 このときの画面表示例を図に示す。 このように、ユーザは実世界における活動をネットワーク上のコミュニケーションへシームレスに還元することができる。
4.4 アドホックコミュニティにおける嗜好の提示
本システムは、AT搭乗時に、周囲にアドホックコミュニティが存在するとき、 そのアドホックコミュニティのメンバとの嗜好の類似度を計算し、地図上で可視化する。 これにより、ユーザは自分に合ったアドホックコミュニティを視覚的に探すことができる。 また、アドホックコミュニティ内の嗜好の繋がりも表現する。 図にその画面を示す。
図は、4人からなるアドホックコミュニティと、それに参加しようとしているユーザを表現している。 右下の三角形が主体となる搭乗者であり、左上の三角形はアドホックコミュニティの作成者である。 残りの三角形は、アドホックコミュニティの参加者を表している。 嗜好の類似度の強さは、ユーザ間を結ぶ線の太さで表される。 線が太い程、そのユーザ同士の嗜好が近いということになる。 実線はアドホックコミュニティ内の、破線はユーザと他のアドホックコミュニティとの 嗜好の類似度を表している。
このように、アドホックコミュニティの形成を支援し、 またそのアドホックコミュニティとの嗜好の類似度を視覚的に表現することによって、 ユーザ同士が実世界コミュニケーションを行うきっかけを提供する。
5 関連研究
本章では、体験の共有や、実世界コミュニケーション支援に着目し、 関連研究を紹介する。
5.1 追体験支援システム
我々の研究グループでは、記録した体験を再利用する技術として、 追体験支援システムを提案している。 これは、 他者の体験記録を利用して自分の行動を計画し、 実際に体験を行うという一連の作業を半自動化するシステムである。
追体験支援では、移動支援と行動支援が行われる。 移動支援では、一般的なナビゲーションであり、目的地までの距離や方向を提示する。 行動支援では、アドバイスのための情報提示と、ATを物理的に制御して体験のトレースを行う。
追体験支援システムでは、他者とのコミュニケーションを支援するための仕組みは無い。 提案手法では、コミュニケーションを行うためのきっかけを与え、 複数人でのコミュニケーションを促進することができる。
5.2 体験キャプチャシステム
角らは、体験キャプチャシステムと称して、博物館や展示会のようなイベント空間において、 複数の人のインタラクションを協調的に記録する方法論の開発を進めている。 特に、イベント空間でのコミュニケーションを体験共有と捉え、 言語のみに頼った情報共有ではこぼれ落ちてしまった暗黙知の共有を目指している。
角らが対象としている体験共有は、時間と空間を共有し、体験を共にしている環境で、 人間同士、あるいは人間と対象物とのインタラクションを記録するものである。 つまり、体験を共有していることを記録するものであり、これを体験メディアと呼んでいる。 本研究では、体験を記録し、第三者との共有を目指しているため、体験共有に対する視点が異なっている。
また、経験や興味を漫画日記として提示し、コミュニケーションの促進を図る、 コミックダイアリと呼ばれるシステムが提案されている。 これは、ユーザ間のコミュニケーションを活性化させるための手段として有効であり、 体験を整理するためにオーサリング機能も提供しているが、展示関連情報の閲覧による個人化にとどまっており、 日常生活に適応することが困難であると考えられる。
5.3 Living Map
写真ベースのシステムとしては、Living Mapと呼ばれる、 GPSと写真を利用して日々の生活を記録し、マップ上で関心の近いユーザと共有することによって、 コミュニケーションを行う仕組みがある。 これは、位置情報をベースとしたオンラインコミュニティを、一つの地図にマッピングすることによって、 街を利用する人々による「生きた」マップを作成していく仕組みである。 これにより、街の利用者による最新の生きた街情報を常に検索・入手でき、 自分の趣向に合わせて、自分が街で行きたいと思う場所を推薦され、発見することができるようになる。 さらに、自分と趣向が合う人を発見し、コミュニケーションを行うことが可能となる。
この論文では「Intersect」という共有方法を提案しており、 ユーザ間の行動軌跡のなかで交わる点がある場合、互いの体験を共有できると定義している。
利用者の体験をベースとして、嗜好に基づいた場所の推薦や、コミュニケーションを促進するという点では、 本研究の目的と類似している。 しかし、写真ベースの体験記録であるため、時間的に広がりのある体験を表現することができない問題点がある。 本研究における体験記録では、映像や音声、時間軸に対応したセンサ情報の履歴などが扱える。
5.4 Meme Tag
Meme Tagは、LEDディスプレイを利用した、小型のタグである。 イベント会場において、参加者はこのMeme Tagを胸に付ける。 Meme Tagにはあらかじめ、その利用者が自分の嗜好を設定しておく。 Meme Tagを付けた他の参加者と、タグ同士を互いに向け合う。 すると、ユーザ同士の嗜好の近さによって、 タグの色が変化する。
この研究は、実世界において嗜好に応じたコミュニケーション支援を行うという点で、 本研究と関連している。 しかし、このMeme Tagで可能になるのは、嗜好の近いユーザの発見までであり、 それ以上の支援は行わない。 本研究では、SNSの仕組みや体験共有という概念を用いることで、 実世界のコミュニケーションだけでは得られない総合的なコミュニケーションの手段を提供する。
6 おわりに
本章では、本論文のまとめと、今後の課題について述べる。
6.1 まとめ
本論文では、個人用知的移動体ATを新たなコミュニケーションツールとして捉え、 体験共有のためのコミュニケーション支援システムを構築した。
本システムは、SNSを基本とした、ATによる体験記録を共有することができるコミュニケーションシステムである。 体験記録を蓄積することによるユーザの嗜好の推定や、 アドホックコミュニティの形成によるコミュニケーション支援を提案した。
6.2 今後の課題
本論文では、コミュニケーションシステムの支援によるアドホックコミュニティの形成を提案した。 アドホックコミュニティの形成は、 実世界の人間関係を広げるために有効な手段である。 我々の研究室では、体験記録に基づいた追体験支援についても研究しているが、 グループによる追体験支援は今後の課題とされている。 本論文で扱ったアドホックコミュニティは、既存の人間関係を超えてユーザ同士が集うための仕組みであるが、 アドホックコミュニティにおける活動については直接支援を行わない。 そこで、今後の課題として、アドホックコミュニティによる追体験を挙げる。
また、本研究ではアドホックコミュニティにおいて嗜好の類似度を視覚化して提示したが、 ユーザ同士がどのような分類に基づいて類似しているのかを示す手段が用意されていない。 嗜好ベクトルによる分類を言語化し、アドホックコミュニティで閲覧できるようにするという点を 今後の課題として挙げる。
謝辞
本研究を進めるにあたり、指導教官である長尾確教授、 大平茂輝助手には、研究に対する姿勢や心構えといった基礎的なことから、 ゼミでの貴重な御意見、論文執筆指導等を賜り大変お世話になりました。 心より御礼申し上げます。
長尾研究室メンバーの友部博教さん、梶克彦さん、山本大介さん、小酒井一稔さん、土田貴裕君、三木まどかさん、 佐橋典幸さん、伊藤周君は、研究活動や研究室生活を通じて、様々なご意見をいただいたり、 あらゆる場面において助けていただきました。 厚く御礼申し上げます。
長尾研究室秘書の金子幸子さんには、研究活動や学生生活の面で様々なサポートをしていただきました。 この場を借りて御礼申し上げます。